生誕150年 横山大観展

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展覧会の構成

1章 「明治」の大観
「明治」の大観 略年譜

1868年 明治元年
0歳 9月、水戸藩士酒井捨彦の長男として水戸下市三ノ町に生まれる。

1878年 明治11年
10歳 一家をあげて上京。神田五軒町妻恋坂下に居住。

1885年 明治18年
17歳 東京英語学校に入学。この頃、渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。

1888年 明治21年
20歳 母方の姻戚横山家を継ぎ、姓を横山と改める。

1889年 明治22年
21歳 東京美術学校第一期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。

1893年 明治26年
25歳 東京美術学校卒業。この秋、同校予備校の教師となる。

1896年 明治29年
28歳 京都市美術工芸学校教諭を退職。東京美術学校助教授となる。

1898年 明治31年
30歳 岡倉天心らと東京美術学校を辞し、日本美術院創設に参加。

1903年 明治36年
35歳 インドに渡航。以後2年半の間にアメリカ、ヨーロッパを外遊。

1907年 明治40年
39歳 文展審査委員。国画玉成会評議員となる。第1回文展《曙色》出品。

1909年 明治42年
41歳 第3回文展《流燈》を出品

東京美術学校の第1期入学生として絵筆をにぎった大観は、校長の岡倉覚三(天心)の指導のもと、新しい時代の絵画に取り組みました。「理想」や「概念」を絵にすること(いわゆる「理想画」)、輪郭線を描かずに絵画を組み立てること(いわゆる「朦朧体」)、油絵のように絵の具を使うこと――若き大観のこれらの取り組みは、後の「日本画」を変えていく力を秘めていました。 この時期の大観は親友で早世した菱田春草と行動をともにしていました。春草と比較し、大観は一つのことを突き詰めるのは不得手でしたが、さまざまな表現に同時に挑戦することができるバイタリティを持っていました。それゆえ、ときに春草よりも大観のほうに、驚くほどに時代を先取りした作品が見られることも事実です。また、誰も描かないような、斬新で、しばしば突飛にも感じられる主題を思いつくことも、大観にしかない際立った特徴です。 この章では、これまで展覧会では紹介されてこなかった作品を積極的に交え、大観の特質について考えます。
《迷児》""/

迷児 まよいご  1902(明治35)年 絹本木炭 個人蔵 7/3-7/22展示

《山路》

山路 やまじ  1912(明治45)年 絹本彩色 京都国立近代美術館蔵 6/8-7/1展示

ザラザラした新岩絵具を油絵のタッチのように使った手法が新しい。 とぼ けたような人物は「大正」の大観風だ。

2章 「大正」の大観
「大正」の大観 略年譜

1912年 大正元年
44歳 『大観画集』(芸艸堂)出版。

1914年 大正3年
46歳 日本美術院を再興する。

1923年 大正12年
55歳 第10回再興院展《生々流転》出品。

1913年(大正2)年に師の岡倉覚三が亡くなると、翌年、大観は有名無実化していた日本美術院を再興し、若手を率いる立場に身を置きました。いわゆる「朦朧体」が批評界に受け入れられず、大観が辛酸を舐めたのは明治期までのこと。大正期には、いたずらに新奇を狙う先鋭的な革新主義者というこれまでの低評価に替わり、東洋の伝統に新しい感覚を吹き込む実力者といった高評価が定着していきました。 この時期の大観の作品には、中国の水墨画や琳派、やまと絵などの伝統的な技法や構図の影響が明確にうかがえます。大観は自身の作品を装飾的な彩色画と水墨画に二分化し、それぞれに古画に学んだ成果を発揮しました。同時に、大観は伝統に変化を加えることを忘れません。作品は「大観」という強い個性をまとうことになりました。 この章では、この時代の代表的な作品を集め、大観が主題や表現において伝統をいかに継承し、改変したかについて考えます。
  • 《群青富士》
  • 《群青富士》

群青富士 ぐんじょうふじ)  1917(大正6)年頃 絹本金地彩色 静岡県立美術館蔵 7/3-7/22展示

底抜けに明るくのびやかな富士山の屏風。 大正期の大観の富士は明快な構図と印象深い色使いが特徴である。

《焚火》 1915(大正4)年 絹本彩色 熊本県立美術館蔵 7/3-7/22展示

《霊峰十趣・山》

《霊峰十趣・山》 1920(大正9)年 絹本彩色 個人蔵 7/3-7/22展示

《霊峰十趣・秋》

《霊峰十趣・秋》 1920(大正9)年 絹本彩色 今岡美術館蔵 7/3-7/22展示

3章 「昭和」の大観
「昭和」の大観 略年譜

1930年 昭和5年
62歳 ローマにおいて日本美術展覧会を開催。《夜桜》など出品。

1935年 昭和10年
67歳 帝国美術院会員となる。

1937年 昭和12年
69歳 第一回文化勲章を受章。

1940年 昭和15年
72歳 紀元2600年奉祝記念展「山に因む十題・海に因む十題」出品。

1952年 昭和27年
84歳 第37回再興院展《或る日の太平洋》を出品。

1957年 昭和32年
89歳 むさしのに因む日本画展《不二》出品、絶筆となる。

1958年 昭和33年
2月、逝去。正三位勲一等、旭日大綬章を追贈される。

この時期、「東の大観、西の栖鳳」という呼称も定着し、大観は京都の竹内栖鳳と並んで、名実ともに画壇を代表する画家になっていました。大観といえばこれ、と誰もが思い浮かべる作品は、ほとんどこの時期に生み出されたといえます。そして、画壇の実力者たる大観は、戦時下には報国に奔走しました。 この章では、大観の昭和の戦前から戦中、戦後の作品を紹介します。代表的な作品をさらに精選し、さまざまな時代相と作品との関わりや、主題がその時代に持った意味を考えます。
《夕顔》

《夕顔》 1929(昭和4)年 絹本墨画淡彩 個人蔵

《或る日の太平洋》

《或る日の太平洋》 1952(昭和27)年 紙本彩色 東京国立近代美術館蔵

《野の花》

《野の花》 1936(昭和11)年 紙本彩色 永青文庫蔵 6/8-7/1展示